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『東京史 ──七つのテーマで巨大都市を読み解く』 源川真希

読書中であった

読書中であった。

隅田川上流である荒川が氾濫すると、東京府だけではなく、その上流に位置する埼玉県でも大きな被害が出た。 というよりも埼玉県側は、荒川の下流である隅田川の沿岸に工場が建設されるため、 沿岸の低地が埋め立てられてしまったこと、 あるいは東京府北豊島郡の荒川沿岸で耕地整理と盛り土が行われたことが、 上流である埼玉県域で水があふれる原因であるとした(『荒川下流誌本編』)。

一九〇七年に発生した水害の後で埼玉県会は、 東京での河岸埋め立てなどをやめさせるように、内務大臣に建議を出している。 しかし、これより下流に位置する東京府側は、 水害防止のため河岸の埋め立てや築堤をいっそう進めようとするのだから、 ますます利害は対立するわけである。

一九一〇年の大水害の後、臨時治水調査会が設置され、全国で河川改修が計画された。 荒川に放水路を設ける構想は以前から存在したが、 一九一一年度から一〇年間(のちに延長)の事業として開削が始まった。 現在の荒川は、水害防止の切実な声のなかでつくられたのだ。

そして、工事のため土地買収と家屋、電柱、埋設したガス管などの移転も行われた。 工事の対象地域に広い境内地を有していた浄光寺(木下川薬師)も、移転を余儀なくされた。 もともとは現在の墨田区側、つまり東京市に近い方に移転する希望があったが、 内務省は代替地がみつからないとして東側(現在の葛飾区)の中川の北側に移転せざるをえなかった。

のち一九三九年には、東京緑地計画の一環として環状線地帯計画が決定された(真田二〇〇三)。 この計画は、東京市の空間的な膨張を抑え、また都市近郊の行楽地を提供するものであった。 一九三九年といえば、日中戦争の泥沼化で国家総動員体制が構築されていく時期である。 これを背景として緑地帯構想は、時代の要請である防空という目的も加味されながら展開していった。

先に計画された緑地は、実際にはいわゆる紀元二千六百年記念事業の一環として 防空を名目に整備されていくのである(越沢一九九一b)。 これが砧、神代、小金井、舎人、水元、篠崎の緑地であった。

砧大緑地の場合、一九四〇年、四一年に用地を買収し、 学校生徒による動労報国隊を組織して造成が行われた(石内一九八一)。 戦争が激化すると縁地には食糧増産のための農園、それに防空壕が設けられた。 そして、第二次世界大戦後においては、先のいずれの緑地も農地改革の対象となった。 その後つくられた公園(砧公園、小金井公園、神代植物公園など)は、 解放の対象となった土地を買い戻しながら整備された。

実は先の写真に写っている場所のさらに右下の方には、木造の家屋が広がっている区域があるはずである。 ここには、おそらく震災復興期に建てられたと思われる木造の住宅がいくつかある。 また水天宮通りに挟まれた日本橋人形町一丁目、二丁目の一角には、 やはり戦前からのものと思われる木造の家屋が並ぶ路地も存在する。

さらに馬喰横山付近から浅草橋を越え、秋葉原方面に少し寄りながら北上したところに台東区鳥越がある。 特に現在の「おかず市場」付近では、戦前からの木造家屋を含む街並みが広がっている。 その他、神田神保町の古書店街なども震災復興期の建築物が店舗として使われているが、 次第に建て替えが進み、失われていくのは寂しい。 ビルに建て替えるのであっても、 もとのファサードと古書店街の雰囲気をできるだけ残すような工夫が、できないものであろうか。

戦争が終わり、街並みの再建が課題となる。 東京都では都市計画家の石川栄耀を中心に復興計画が策定され、震災復興事業に続く大規模な改造が計画された。 土地区画整理、街路の整備、公園や緑地整備などが都市計画決定をみたが、 その計画の大半は実行されていない(越沢一九九一a)。 敗戦後の東京都は、財政の逼迫のなかで、土木事業、産業活性化のための中小商工業への融資、 住宅政策、失業対策、社会福祉政策など多くの課題を抱えていたことも、戦災復興に手が付かなかった理由であろう。

計画された二万ヘクタール近い区画整理対象区域は、その後大幅に縮小され、 山手線、京浜東北線、総武線駅前地区の整備がある程度行われたに過ぎなかった。 そして、この時代に東京都が力を入れざるを得なかったのは、 空襲の被害などで発生した瓦礫の山を、都心の河川に投げ込んで処分する事業であった。 また駅前などの繁華街に続々と誕生した、 生活必需品を売る露店をいかに整理するか、ということも行政の課題であった。 GHQは、一九五〇(昭和二五)年三月末までに露店を一掃する命令を出した。 露店側は反対運動を行うが、のちにその代替地を求めつつ、営業活動の整理を進めていかざるを得なかった。

これらを経営する人々は、露店商組合を結成して行政との交渉にあたった。 露店のうち、飲食店は渋谷駅の北側、現在の「のんべい横丁」に移ったが、 物品販売店は渋谷に代替地がなく、横浜の野毛に出店地を獲得したという。 その後、東急との交渉によって、地下街で営業を行うことになり、 一九五七年に渋谷地下街(「しぶちか」)が誕生したのである(渋谷学研究会二〇一四)。

吉田律人によると、東京・横浜の銭湯経営者には、 戦前から特に石川県、新潟県それに富山県の出身者が多かったという。 石川県では能登半島、新潟県では西蒲原郡の人々が特に多い。 地元のネットワークを使いながら同郷の若者を呼んで修業させ、 経営者として育てていったのである(吉田二〇二〇a、b)。

多摩地域は、現在東京都に位置するが、神奈川県に属していた時期もあった。 その歴史的な経緯をみてみよう。 一八七八(明治一一)年の郡区町村編制法で、多摩郡から東・西・南・北の多摩郡が生まれた。 このうち東多摩郡は東京府に属していたが、 西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡(これが三多摩と呼ばれる)は、神奈川県に編入された。

……

このような市街地化の進展に伴い、市区改正事業が終了したのちには新しい都市計画の構想が練られていた。 すなわち、一九一九(大正八)年に都市計画法が制定され、これによる東京都市計画区域が一九二二年に決定された。 この範囲は、東京駅を起点として半径四里(約一六キロメートル)とされ、ちょうど東京市と周辺五郡が入る区域であった。

一九三ニ(昭和七)年一〇月一日、三五の区、人口約五五一万人からなる東京市が誕生する。 旧五郡が解消して、新たに区として編入されたのである。 当時、市域拡張を経た東京市は「大東京」などと呼ばれた。 拡張された市域という意味である。 先の東京都市計画区域は、一時間以内に中心地、 すなわち東京駅周辺に行くことのできる範囲で設定された。

……

なお北多摩郡砧村、千歳村が一九三六年になって東京市世田谷区に編入され、 ほぼ現在の二三区の範囲が東京市となった。

明治維新とともに始まった日本の近代社会は、西洋近代からさまざまな知識・技術・文物を輸入してつくられていく。 そのなかで、社会の秩序についての考え方も入ってくる。 それは、近世的な身分制が解体したのちにも存在する社会の格差を、近代の言語によって読み替え、正当化していく。 こうして、自由放任をよしとする社会観が、明治初期に一斉に語られる。

東京の街を整備するための市区改正事業が実施される頃、貧しい人々が住む場所を移転させることが計画され、 また実行された。 富者と貧者は都市のなかで住み分けをすべきだという発想であった。

その際、田口卯吉のように、富者と貧者の住み分けには反対する者もいた。 他方で彼は、行政が貧しい人々に公費支出による扶助を行うことにも反対していた。 だから、富者と貧しい人々の近接を望ましいものと考える理由は、 一方で富者にとっては安価な労働力が手に入り、それによって手間賃が貧しい人々にもたらされるからである。 その意味では、両者にとって利点がある。 こうすれば公的扶助など必要ない。このような発想によるものである。

実際、東京府会では一八八一(明治一四)年度の予算膨張に対応して、 「民力休養」の立場から、予算削減を行うことが焦点となった。 そのため、施策の見直しが必要となり、やり玉にあがったのが貧民救済事業であった。 この時期、地方税により養育院、施療院や施療券医療、庶民夜学校の経営などが行われていたが、 それらの廃止が自由民権家の沼間守一らから訴えられた(中嶋二〇一〇)。

そこにあるのは、貧困に陥るのは怠惰だからであるという人間観である。 また同じ府会で田口は、幾ばくかの地方税を負担している貧民が、 地方税を負担していない「怠惰」な貧民を救うことになるのはおかしいと発言した。 彼らの救済には民間の自発的組織があたるべきで、先のように富者が雇用を与えて、 彼らに収入を得させることもありうるのだろう。 結局、僅差で養育院廃止は否決されるが、先にあげた他の貧民救済事業は廃止されてしまう。

ちょうど同じ頃、『東京横浜毎日新聞」『朝野新聞』誌上で、 貧民救済の是非をめぐる論争が行われていた。 貧民救済について、「毎日』は、誰を救済するかという基準がないこと、 他の貧民との間の不公平が生じること、そして怠惰な者に救済を施すことになる、 という理由から、貧民救済に否定的であった。

この末広の意見の背景にはもともとその人が土地をもつかもたないか、 教育を受けているかいないかによって、経済的格差が生じるのであるから、 貧困は社会構造の問題として理解すべきであるという主張がある。 そして彼らに救済を与えることは、社会の利益になるというのである。 社会の利益になるから救済は必要だということは、 救済を受けることがその人の「権利」であるという考えとは異なるものといえよう(大和二〇〇九)。

この時期、貧困に対応する法制としては一八七四年に制定された恤救規則があったが、 これは極めて慈恵的な扶助しか規定していない。 先にみた養育院が、渋沢栄一を院長として活動した時代もある。 一八九〇年には市営となったのだが、身寄りのない高齢者や子供のうち、 ごく限られた人々が入院できたに過ぎなかった。 その他、民間の救済団体、宗教団体の手になる施設が大きな役割を果たしていたのである。

明治末から大正期にかけて、東京など大都市でしばしば騒擾事件が発生したことはすでに述べた。 その始点が日露戦争後、一九〇五 (明治三八)年九月に発生した日比谷焼打事件である。 この事件に参加したのが、日雇い労働者あるいは職人・職エの男性、 それも二十代から三十代の青年であることがわかっている。

……

当時、これは反政府的勢力の陰謀であるとも受け止められた。 桂太郎首相ら藩閥とそれに協力する立憲政友会に対抗する憲政本党などの政党、 あるいは社会主義者や無政府主義者が引き起こしたものだともいわれた。 しかし、これは立証されていない。

そしてこの騒援の中心的な担い手は、都市下層民であった。 彼ら民衆は、日露戦争に動員されて命を落としたり、負傷したりした。 また非常特別税により醤油など日常使う生活必需品への税負担を強いられる。 こうした生活難が、戦争の見返りとしての賠償金が獲得できないことへの不満としてあらわれていく。 彼らは明確に「国民」としての自覚をもち、自国の利益を実現することを願う人々であった。 これが先の反政府的動きと連動して暴動となった。

講和に異議を唱え政府を攻撃した人々は、国民の利益の実現を念頭に置いた政治を求め、 かつ旧来の政治支配の担い手である藩閣と政友会を批判する。 他方では、強硬な外交政策を求める存在だ。 宮地正人はこれを「国民主義的対外硬派」と呼んだ(宮地一九七三)。

また内に「立憲」、外に「帝国」という大正デモクラシーの始点として、この事件は位置づけられた。 以後発生する電車賃値上げ反対の運動や米騒動などは、外交問題が特に取り上げられるわけではないが、 民衆の生活要求と結びついたものであることは明らかである。

男性の心情から暴動を説明する

暴動参加者は、明確な政治的意図によって集まったわけでないが、 都市の一角で不安定な生活を営んでいたというのは間違いない。 とはいえ、このような人々が「国民」意識や生活難への憤懣のみで暴動に参加するというのは十分な説明にはならない。 これを、騒擾に参加した主体の側から説明する藤野裕子の研究がある(藤野二〇二〇)。

彼ら日雇い労働に従事する男性は、自分の店を構えて商売を行う夢をもち、 東京で一旗あげてやるという気持ちで上京する。 だが勤勉によって身を立てることは非常に難しいのであって、 往々にして「酒、女、ばくち、いれずみ」に依拠した刹那的生活に陥る。 世の中では、刻苦勉励による立身出世が美徳であるとされ、 多くの若者がこうした規範にからめとられていくだろう。 しかし、あえてこうした規範とは異なる価値観をもち、 それをエネルギーとしてため込んでいたのが、街頭で暴れた男性たちであった。

豚野の議論はこれら男性の心情の側から、騒擾の発生を説明するものである。 確かに社会・経済構造から直接暴動を説明すると、 暴れた主体の経済的地位の弱さと、一般的な規範としての国民意識の形成が強調される。 藤野はあえて、彼らの一見逸脱したような道徳(不道徳)を一つの行動原理として位置づけ、 既存の規範や国民意識ではない何かを拾い上げようとする。

これは、ある種の閉塞感があるなかで、 それを打開する手段がみえにくい二一世紀において、共感を得るアプローチであると思う。 明治の競争社会のなかでの「生きづらさ」をテーマとした、松沢裕作の議論とも通じるものがある(松沢二〇一八)。

とはいえ、藤野が指摘する青年の心情は、スポーツに類似した競争ごとでも、 はたまた当然ながら賭け事やケンカでも噴出するだろう。 だとすると、彼らの心性から焼打事件などの政治的事件への参加や、 のちに述べる関東大震災時の朝鮮人虐殺への加担を説明するのは、やや難しいのではないか。 そうなるとやはり、そうした行動に駆り立てた外的契機がどうしても問題になる。

なぜ反政府的騒擾や電車賃値上げ反対運動で暴れるのか。 とにかく、彼らの行動を規定した外的な条件と、 彼ら自身の主体性の関係を、歴史家が置かれた時代に応じて考察し直すことが重要だ。

社会都市の形成

一九〇〇~一九一〇年代に何度かみられた都市民衆騒擾は、一九一八(大正七)年夏の米騒動がほぼ終点となる。 シベリア出兵での需要をあて込んで米の買い占めが起こり、 米価が急騰したことをきっかけに、全国各地で米穀商などが襲われ、また街頭での暴動が発生した。 東京でも、八月半ばに日比谷公園で集会が予定され、それは行われなかったものの、 集まった人々が示威行動を行い、商店を襲うなどの事件となった。 騒擾の担い手となったのは、日比谷焼打事件と同じような都市の下層民であった。

だがこの時期、外米や朝鮮米が入っており、東京でも行政による米の廉売が行われていたのであって、 少なくとも東京市では、多くの人々が絶対的に窮乏したわけではない。 そして都市下層民よりも、中間層の下位に位置する人々の生活が困難になる状況が存在した。 そのことは、社会政策に新たな役割を付与した。 つまりこれまでは貧困に陥った人々を救済することが社会政策の役割であると考えられたが、 この時期には貧困に陥らないための施策こそがその重要な役割として認識される。

この点で東京市と同じ工業都市であった大阪市のようすをみておきたい。 大阪市では、関一市長(一九二三〜三五年)のもとで、 収益主義と公益主義に基づく生活のインフラ整備と社会事業が展開された(芝村一九八九)。 その際、都市行政の専門家が都市経営にあたることを重視した(都市専門官僚制)。

代議機関である市会を無視するわけではないが、有産者秩序のもとにあった市会では、 社会問題に積極的に取り組むことはなく、行政の専門知識はない。 よって複雑化する都市問題には十分な対応ができないのであって、 行政側の専門家が適切な施策をうちだし実行することが重要だとされたのである。

さらにこうした都市行政の動向を世界史的に位置づけておきたい。

ドイツ近代史では、「社会都市」という用語で、二〇世紀における都市行政を特徴づけている。 救貧行政のみならず、「生存配慮」とまとめられる諸施策、 すなわちエネルギー供給、社会インフラ、保健衛生、住宅、文化・教育などを含む給付行政に対して、 都市の行政が積極的に関与するというあり方である(馬場二〇〇九、二〇一六、森二〇二二)。

まさに大阪市の事例はこれにあたるであろうし、 東京市の第一次世界大戦の頃からの行政のあり方から、社会都市と呼んでよいのではないかと考える。

オーストリアのウィーンでも一九世紀末から二〇世紀にかけての、 キリスト教社会党のルエーガー市長時代には、 ガス事業市営化、市営交通、電力供給、上下水道、駐場、貯蓄銀行の整備、それに社会福祉や教育政策も展開された。 ここにみる「キリスト教社会主義」は、マルクス主義とは明確に一線を画しつつ、資本主義の弊害を是正しようとした。 同時に、反ユダヤ主義的色彩をもっていたことが指摘される。

また第一次世界大戦後には社会民主党市政となり、社会主義的な立場からの独自の福祉・健康管理政策、 それに公営住宅政策などが行われることとなった(田口二〇〇八)。 特に公営住宅政策は、ナチ・ドイツの解体を経て戦後においても展開され、住宅ストックの面で大きな成果をあげている。

田口晃は、世紀転換期以後のウィーンの事例から、都市は社会問題を生み出す場であるとともに、 その解決策が提起され、新しい公共性を作り出す実験場であると指摘している。 これは、大阪市や東京市についてもいえることであろう。

「お米のふだ」とは、三井財閥の寄付による食糧券である。 一九三二年には血盟団事件、五・一五事件が発生している。 財閥・政党政治への批判が強まるなかで、社会奉仕の意味で行われた寄付であろう。 この綴方が書かれた時代は国内政治の転換点であり、また満洲事変が続いている時期でもある。

……

四年生も終わる頃、正子はセルロイド工場に働きにいくことになった(「彩色屋」)。クラスの友人が誘ってくれたのである。正子は学校で「弁当をもらっている」ので、少しでも働こうと思った。担任の大木は正子の家の窮状をみかねて、生活困窮児童のための給食を手配したのである。

一九三ニー(昭和七)年の調査だと、給食を提供されている児童は旧市域では四谷区、新市域では荒川区、深川区、本所区、城東区、葛飾区、江戸川区に多かった。給食の方法は、近隣の食堂などに依頼する請負制、学校の自己調理、パン券などを支給して児童が各自で購入するというものだが(『要給食児童調査』)、正子がどのように食べていたかはわからない。

中川溝によれば、第一次世界大戦期の工業化で、工場労働者が都市下層民から階層的に上昇を遂げ、 また都市下層民自体も全体として実質消費水準を上昇させていく。 そして彼らは家族としての世帯形成を遂げた。 そして昭和恐慌期には家計は赤字が恒常化し、 実質消費水準を一〜二割低下させ、飲食物費も低下させていく(中川ー九八五)。 だが、一九三〇年頃には、そうした厳しい生活を営みつつも、何とか維持される生活の枠組が出来上がっていたという。 まさに正子の家も、そのような例として位置づけることができるだろう。

筆者が大学院生の頃、広く都市に関わる何らかの課題について調べたいと考えたら、 まず市政専門図書館にいってカードをめくった。 手書きのカードも、『都市問題』所収の文献目録から切り取ったのであろう論文名を貼り付けたカードもあったが、 いずれにせよ、この一枚一枚が研究の出発点になった。 現在は、自宅にいながら、同研究所のウェブサイトにキーワードを入れれば関連論文名が出てくるので便利である。 遠隔地から閲覧に行っていた研究者にとって、これは画期的なことだ。

日米修好通商条約で横浜(神奈川)が開港した際、当初ハリスは品川の開港を求めていた。 幕府はこれを認めなかったが、江戸の商人に横浜に出店をさせ、 生糸などの五品目を江戸の問屋をとおして輸出することとした。 一八六八年すなわち明治元年、江戸は開市し、築地鉄砲洲が商取引の場となり、ここには居留地がつくられた。 だが、東京の港に外国船が入ることはなく、 一八七二年には鉄道が開通し、短時間で横浜・東京を行き来することができるようになった。

特に一九九九年に閣議決定をみた第五次首都圏基本計画策定の過程においては、 工業等制限法の見直しが焦点となった。 最終的には、二〇〇二年に同法は廃止となる。

もちろん同法の規制がなくなったからといって、 すでに海外への工場移転が進んでいるなかでは、東京などに工場が戻ってくるわけではない。 おそらく東京でいえば、大田区などの既存の工業地帯の選択的な拡充が求められたのだろう。 しかし、そのような現実的な機能というよりも、むしろ同法の撤廃には別の意味があったのだと思う。 すなわち、工業等制限法は「国土の均衡ある発展」という国土政策の精神のもとでの地方分散を推進したのであり、 このような考え自体を解体することが目的だったのではないだろうか。

確かに日中戦争開始後、特に一九三九年あたりは、 軍需景気のなかで工場労働者などの賃金が上がり、街は好景気であった。 翌年になると物資統制の影響が深刻化するのだが、 デパートでの奉賛展覧会などを通じて人々を消費に呼び込み、 「建国聖地」巡礼を名目に、旅行を楽しむ雰囲気があっただろう。

一方では奉祝の感情、他方では地域で集まった寄付が多かったからなのかわからないが、 街なかの神社や公園には、紀元二千六百年を記念して建立された石造物が少なくないことに気づく。 筆者自身、東京の街を歩く際には神社の玉垣に記された情報や、 石造物の建立年代をチェックするようにしているのだが、 二千六百年記念と入ったものをみつけることはかなり多い。

こうして二〇一二(平成二四)年、墨田区の業平橋駅にあった東武鉄道ヤード跡地に、 六三四メートルの東京スカイツリーが誕生した。

ここに置かれた駅は一九〇二(明治三五)年に新設され、いったん廃止されるが、九〇八年に浅草駅として使われた。 そして一九三一年に、隅田川を渡って浅草雷門駅が、 東武鉄道の始発となった際に、業平橋駅と改称された。 ここは構内に機関区と工場を有する場所であり、北十間川を経て隅田川に通じるドックも造られて、 水陸の運送の拠点となった。 工場としては、磐城セメント、日立セメントの生コンクリート工場、石材工場、砂利工場などがあった (『東武鉄道六十五年史』)。

このあたりは、旧赤坂区と麻布区の境にある低層密集地区であり、都市再開発の施行面積は約五・六ヘクタールである。 もともと五〇〇人余りの権利者がいたが、最終的には五〇人の権利者で都市再開発組合がつくられた(長谷川一九八八)。 民間デベロッパー、 それも老舗でなく地元に根付いた新興の森ビルの主導で利害調整を行ったことに特徴があった(町村二〇一九)。

……

四全総のように全国に投資をばらまくのではなく、 東京のように儲かる都市に集中して、東京が儲けて地方に投資するのが経済的である。 また複合施設には次のような発想がある。 すなわち地球規模で活躍するエリートがヘッドオフィスに集中すると移動が頻繁になる。 だから同じ施設にホテルや住宅を設ける。 家族も住むから音楽や文化施設ばかりではなく、ショッピングなどの要求に応えなければならない。 そうすれば「相当グレードの高い人」が来てくれるのだ(森一九八七)。 ここにみられる発想には、後の東京都心の再開発の方向性を示唆するものがある。

雑誌「谷根千」(谷中、根津、千駄木から一文字ずつとった)のように、 失われつつある東京の街並みを残していく市民の活動も盛んになり(森二〇〇二)、 また近代の都市の記憶を、さまざまな形で残す試みが行われていた。

アメリカの日本史研究者であるジョルダン・サンドは、 それらの営為を時代状況に位置づけ、かつ思想史的な意味づけを行っている(サンド二〇ニ一)。 また東京都による江戸東京博物館建設も、先の「ふるさと」意識の涵養の側面があると同時に、 急激な東京の変貌のなかでその遺産を後世に伝える試みであった。 ちょうど一九八〇年代後半は、バブル経済に至る景気の上昇のなかで、 地価が高騰し「地上げ」などが社会問題化することにもなった。